三浦春馬の死について思うこと
三浦春馬に特別な思い入れがあるわけではない。
それでも「三浦春馬が死んだ」と聞けば、どうしても思い出してしまう姿がある。
・コンフィデンスマンJPのイケメン詐欺師
・世界は欲しいものであふれている、でJUJUとくだらない話をする姿
・Mステで見た、キンキブーツでの男臭く力強い、それでいてどこか妖艶な美しさを感じさせる女装
ただのイケメンではなかったような気もするし、死んだからこそそう思うのかもしれない。
おそらく大半の皆さんもそんなかんじではないだろうか。
元々特段好きというわけではないが、死んだと聞けば思うところがある。
何日かは少しショックを受けたりするが、この時期になれば三浦春馬の死を引きずっている人もそう多くはないだろう。
死人はどうしても神格化される。(めぞん一刻で学んだ)
なぜか。自由だからだ。
三浦春馬は「裸で何が悪い!」と叫んで前転を繰り返したりしないし(古い)、多目的トイレに女性を呼び出して事に及ぶこともない。
『僕の私の三浦春馬』は、そのイメージを絶対に裏切らない。
そしてこの死人の性質は、若くして自殺した美青年という属性と、とことん相性がいい。
容姿のよい成功者が自殺するという事実は、それ自体に違和感があるからだ。であるならばそこには何か理由があるに違いない。と考える。その理由は各々が好きに考えればよい。
「繊細な人っぽかったもん。いい人は考えすぎちゃうんだね」
「よっぽど何か辛いことがあったんだろうね。」
なんでもいい。自分が納得する内容ならそれでよい。別に誰が傷つくわけでもない。
どこか特殊な理由を自分の中で見つけて(或いはワイドショーの中から引用して)自分を納得させる。もう少し三浦春馬に興味のない人は、自分を納得させるモチベーションが低いから、まあ俺達にはわからない何かがあったんだな、とだけ思ってそこで終わりにする。実際に俺の態度がこれにあたる。
こういう態度が、少なくとも俺の中では、三浦春馬の死に対する反応として自然だと思っている。
しかし瞬間的にショックだ…となって、しかし一週間も経てばケロッと忘れているというのは。
神格化して死人に勝手な理想像を見るというのは。自分から遠ざけて理解を放棄するというのは。
まあそういうもんなんだが、それを自認してしまうとあんまり気持ちのいいあり方でもない。
我々は(私も含め)馬鹿なので、自分の感情をわざとらしく大げさに捉えたりするし、喉元を
過ぎてしまえば熱さを誤認していたことすらもすぐ忘れる。
そういう人たちに物申したいというわけではなく、では人の死に真摯に向き合うということはどういうことなのか、ということについて、彼の死から考えていきたい。
というか考えたことをここに書き連ねていく。
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きっかけになったのは、とある友人の言葉だ
「三浦春馬、イケメンのくせに死ぬなよな」
これである。これが、俺にとってone of themだった三浦春馬の死を特別なものにさせた。
初めにこれを聞いた時、率直にひどいことを言うなあと思った。
三浦春馬には三浦春馬なりの事情があり、死んだからには何かしら死ぬだけの理由があったのだ。イケメンだとか成功しているだとか、俺たちに見える範囲だけでそれを評価しようというのは、いささか傲慢であり、思いやりに欠ける。
俺は、三浦春馬の死んだ理由はわからないが、それでも彼の判断をリスペクトするべきだと思っていた。
「イケメンじゃない俺達も生きてんのにあいつが死ぬなよな」
友人は続けて言った。
これはかなり意見が分かれるところだと思う。そういうことじゃないし。
でも俺はこれを聞いた時、確かにそうかもしれないと思った。俺達だって皆何かしらを抱えていて、それでも生きている。
重要なのはこの考え方の是非ではなく、俺がこれを聞いた時になるほどと思ったというところだ。俺は友人とこの話をするまで自分にこういう感覚があることに気づかなかったし、もっと言えば気づかなかったのではなく無意識のうちにこの考えを殺していたとさえ思った。
それはつまり、倫理的にあまりいい発想ではないからである。
他人だから、自分には想像のつかない人だからわからないという態度は、なるほどたしかに間違っていない。ファンや厄介な人など、誰と絡んでもそつない。
態度としては間違ってはいないが、実際に俺の頭の中にこの発想しかなかったのは、欺瞞である。
友人は俺よりも、自分事として三浦春馬の死を捉えている。だからこそこういう発想が素直に出てくるのだろうなと思った。
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今回の一件から学んだこと。
人の死とか人権とか、そういうセンシティブな話題に対して、どうしても自分は(というか多くの人は)適切な態度と自分自身の考えを混同してしまいがちなので、気を付ける必要がある。
でもセンシティブな内容にこそ、本当は自分の意見がとても重要だ。(口に出すかは別として)
死は平等にやってくる。権利はたまたま与えられているにすぎない。だからこそ適当に流さず、真剣に向き合う必要がある。
そのためには、何より自分事として捉えることだ。
三浦春馬の死を。いつか自分に訪れるそれを。